「現実的な改革を」「対決よりも対話を」「中道・実務型で合意形成を」——。
国民民主党や日本維新の会が掲げるこうしたメッセージは、政治の混迷に疲れた有権者にとって耳障りの良いものです。過激でもなく、極端でもなく、落ち着いた中道のふるまい。
しかし私たちは、「現実的」という言葉が、時に“中身のない妥協”や“方針なき迎合”とすり替えられていないかを見極める必要があります。
「対話」を掲げながら理念が見えない
国民民主党と日本維新の会は、立憲民主党と自民党の「間」をとるような立場を取りがちです。「与党と是々非々で向き合う」「政権に入る選択肢も排除しない」など、両党ともに柔軟性と実務能力をアピールしています。
しかし、「どの方向に進むのか」という軸が見えづらいままでは、対話や実務の姿勢が空回りしてしまう危険があります。現実主義が理念なき現状追認に陥れば、それは“改革”ではなく“停滞”にほかなりません。
たとえば、給付金の議論やエネルギー政策、教育無償化のようなテーマにおいても、「与党案に近づきつつ批判もする」という曖昧な態度は、かえって有権者の不信を招きます。
一方、日本維新の会も「現実的な改革」や「行政の効率化」を掲げ、政策決定を経営的視点で進める姿勢を強調しています。「身を切る改革」や「大阪モデル」など、注目を集める施策もある一方で、数値偏重やスピード優先の姿勢が、住民との対話や地域特性への配慮を置き去りにする場面も見られます。
改革の名のもとに、制度を支える信頼や合意形成の土台が削られては、本末転倒です。
成果主義の危うさ
2024年度の国家予算編成において、国民民主党と日本維新の会はいずれも「是々非々」の立場を掲げながら、与党との協議に実質的に関与し、一定の修正案を引き出したと主張しました。
国民民主は「ガソリン税の一部減税」などを強調し、維新は「歳出改革」や「文書交通費の見直し」などを成果として打ち出しました。
たしかに短期的な政策対応としては一定の効果を見せたかもしれませんが、財政全体の整合性や中長期的制度設計の観点からは、いずれも一貫性を欠いた“場当たり的な成果アピール”に映る部分があります。
理念が不在のまま成果だけを切り出せば、制度は積み重なるのではなく、消耗されていきます。
「ぶれない土台」がなければ調整は意味を失う
もちろん、政治には妥協も調整も必要です。しかし、それは「ぶれない土台」があって初めて機能するものです。
両党の理念のない調整は、単なる多数派迎合にすぎません。
これは、特定の政党や政治家に限られた問題ではなく、日本の国政制度そのものが抱える構造的な課題でもあります。
実のところ、「ぶれない土台」を国政政党の中で確立できている例はほとんど見当たりません。なぜなら、日本の国会議員は比例名簿による党内序列ではなく、各地域の選挙区から個別に選出されるため、党内の上下関係が明確ではなく、国家全体をどう設計するかという合意形成が難しい構造になっています。
地域代表という性格が強いため、国家観よりも地域利益を優先せざるを得ず、「党としてのビジョン」に真に立脚する政治は、制度上も文化上も育ちにくいのが実情です。マニフェストや公約があっても、それを国家設計の土台として深く考えている国会議員がどれだけいるのか、実際の発言や質疑を聞いていても疑問に感じることは少なくありません。
現実を直視することと、現実に流されることは違います。
「進める保守、逃げない責任」から考える
私が掲げる「進める保守、逃げない責任」は、現実に立脚しながらも、理念と責任を放棄しない姿勢です。
その場しのぎではなく、積み上げていく改革。
一過性の人気や数合わせではなく、信頼のある制度設計。
中道のふりをして立ち止まるのではなく、歩みを止めずに“進める”勇気を持ちたい。
それが、政治への責任の取り方だと考えています。
🧩 実務型政治の意義を育てるために
調整や対話を重視する政治が果たしてきた役割は小さくありません。だからこそ、現実的という言葉が空虚にならないために、「何を実現したいのか」という理念と向き合う努力が求められます。中道とは、どちらにも寄らない立場ではなく、自らの立ち位置を明確にした上で、他者と対話する勇気のことなのです。
📣 あなたはどう思いますか?
「現実的な政治」とは、どうあるべきでしょうか?
“中道”という言葉に、あなたは安心を感じますか?それとも迷いを感じますか?