いまの日本の政治には、「壊す」ことをスローガンとする勢力が目立ちます。彼らは時に、「国をぶっ壊す」「既得権を粉砕する」「NHKを解体する」「財務省をつぶせ」など、極端で刺激的な言葉を用いて人々の感情を動員します。

たとえば、N国(NHK党)の立花孝志氏は「NHKをぶっ壊す」というキャッチフレーズで注目を集め、街頭演説やYouTubeで既存制度への不信を煽りました。また、れいわ新選組の山本太郎氏は「財務省をぶっ壊す」と明言し、財政政策への激しい批判とともに、国民への直接給付を強く主張しています。

しかし、問い直すべきは、「壊したあと、何が残るのか」「その壊すという行為が、私たちの暮らしや社会にどんな影響を与えるのか」ということではないでしょうか。

怒りは正当でも、壊すことは正義ではない

たしかに、政治に対する不信、行政への失望、制度への怒り。それらは私たちの中に確かに存在します。そしてそれを代弁する言葉に共感する気持ちは理解できます。

けれど、怒りがそのまま政治の方法になるとき、社会は不安定になります。制度を壊すことは一瞬ですが、制度を築き直すには膨大な時間と信頼が必要です。壊してからでは遅いのです。

壊されるのは制度ではなく、社会の信頼そのもの

「ぶっ壊す」と叫ばれた先で、本当に壊れてしまうのは、制度だけではありません。公共サービスへの信頼、議論の土台、異なる立場の人々との関係。つまり、社会を支えている“見えない土台”が崩れてしまうのです。

例えば、選挙における公営掲示板の独占的利用が行われれば、候補者間の公平性への疑念が生まれ、選挙そのものへの信頼が損なわれます。兵庫県知事選挙では、候補者の言動による混乱や誤解が広がり、有権者の政治離れに拍車をかけました。こうした出来事は、制度そのものよりも、制度を支えている“信頼”を損なってしまいます。

制度には確かに欠陥もあります。ですが、その制度に少しずつ手を入れ、補い、育てていくこと。それこそが、持続可能な社会への責任ある態度ではないでしょうか。

制度を壊す前に、制度の背景を問う

日本の制度設計には、確かに硬直化や時代遅れの部分があります。しかしその背後には、議会制民主主義のルールや、予算編成と執行の分離原則、行政と立法のバランスなど、多くの国民的合意に基づいた積み重ねが存在します。

制度に対する不満があるならば、まずはその制度がなぜ存在しているのか、誰のためにどう機能しているのかを問い直すことから始めるべきではないでしょうか。それを飛ばして「壊す」ことばかりが先行すれば、最終的に損なわれるのは市民自身の暮らしです。

「進める保守、逃げない責任」から考える

私は、「進める保守、逃げない責任」という立場から、制度や仕組みを壊すのではなく、育て直すことを政治の中心に置きたいと考えています。

それは、「何もしない」ということではなく、「何を壊さずに、何を変えるか」を考え抜く姿勢です。感情的な破壊ではなく、現実に根差した更新。これこそが、本来の保守のあり方であり、いま必要とされている政治の姿勢だと信じています。

🧩 建設的批判としての「壊す」のあり方

制度への怒りや不満を起点とする運動が、社会に変化の必要性を突きつけていることも確かです。「壊す」という言葉の裏にある問題意識そのものは、民主主義において大切なシグナルです。だからこそ、壊すだけで終わらず、「どう築き直すのか」へと議論を深めていくことが、次の政治を形づくる鍵となるのではないでしょうか。


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